2週間ほど前に戴いたまま、撮影のチャンスを逃がしてしまったロザリオ・ビアンコ(緑)と赤嶺です。
届いたばかりの時は、まさに宝石の美しさだったけど、美は移ろいやすいのだなあ!
自他共に認めるモノグサ派の私は、縄文時代のような採集生活に憧れている。地面に落ちた木の実を拾う・・・最上の収穫方法ではないか!
というわけで、クリやクルミやギンナンやペカンや植えた。今その実が落ちる時期。「木の実の秋」の最盛期。うれしくて仕方がない!
最初に落ちるのがクリで、今年はもう終わった。
今年のクリは最終的には80キロほどもあったかな?最初は不作と思っていたが、ピーク時には1日に5キロも拾った。もっとも3~4割りは虫食いだから、正味は50キロほど?
友人・知人からいろんな形での戴き物がある。食べ物や薪や情報やお金(市民運動へのカンパとして)や労働の提供や・・・・・。
お金のないビンボー暮らしにもかかわらず、快適に暮らせるひとつの理由は、この辺にある。
私はすべてを自給して、快適に暮らすつもりはまるでない・・・・と言うより、基本的にナマケモノだから、その能力がない。だから私の自給は「他力の自給」なのだ。文字上は自己矛盾ですねえ!(笑)
例えば、私はスモモやモモやブドウもやキーウィや・・・・・、手のかかる果物は作らない。消毒・剪定・摘果・袋かけ、袋はずし、施肥・・・・・と、ナマケモノには目のくらむような作業がギッシリ。そんな事をするくらいなら、食べなくていいのだ。
ところが世の中の多数派は刻苦勤勉型で、こうした手のかかる果実栽培に情熱をかける。私の友人・知人にも5,6人の果樹農家がいる。だから季節には「ちょっと訳ありだけど味は変わらない」モモ、スモモ、ブドウ、リンゴ、キーウィ・・・・・がフンダンに届く。
戴いたその頃には、わが家にはお返しするモノが何んにもない。
そのお返しを、この季節のクリでする。
かつては自家用のクリがどこにもあった。けれど貨幣経済ドップリの最近の田舎では、クリは真っ先に切られてしまい、買う物になってしまった。
だからわが家のクリをお届けすると、とても喜ばれる。こうして50キロのクリは落ちるはじからハケてしまった。
こうしてナマケモノながら、一方でタップリの美味しい果実をいただくことができ、一方でナマケモノがただ拾っただけのクリであっても、友人らの食卓に秋の食材をお届けできて、喜んでもらえる・・・・・・。
持ちつ・持たれつ。「他力依存」・・・・・いい関係ですねえ!
完全自給型より、こっちの方がずっと楽しいと思う。もちろん「他力」ゆえの不確実さはあるけど、人生、所詮は不確かでは?
次のお届けはギンナンです。