体の芯の疲労感が抜けない。
で、公的スケジュールが無いのと雨天を幸いに、昨日は1日中ベッドの中で過ごした。眠りたいだけ眠り、目が覚めたら本を読む。
本は『Reading Lolita in Teheran』。
邦題は『テヘランでロリータを読む』だろうか?
数年前に米国に移住した友人が、地元のブック・クラブに属していて、読み終えた本12冊を送ってきた。その中の1冊がこの本だった。
イスラム革命後のテヘランを舞台にしたノンフィクションである。
著者はテヘラン大学で英米文学教えていたイラン人女性。
厳格なイスラム原理主義者が政権を握り、人々の暮らしが日を追うごとにガンジガラメに縛られていく。
宗教原理を基準にして、物事を黒・白、善・悪に二分して、その中間のグレーゾーンを認めない社会。人間がもつ曖昧さ・弱さを、認めない、許さない・・・・硬直して、窒息しそうな原理主義体制。
一部の人間の狂気と熱狂が、社会を騒乱状態に巻き込んでいく。そういう社会で、人はどうやって正気を維持し、サバイバルしていくのか?
イスラム革命の初期、イスラム原理主義とイスラム共産主義の主導権争いがあり、政治闘争に巻き込まれた教え子の多くが、理不尽な死を遂げていく。
同僚のインテリたちは国外に逃避するか、沈黙で抵抗するしかない。
そんな中、イラクとの戦争が始まり、テヘランにもミサイルが打ち込まれ、状況はさらに絶望的になる。
彼女が教えるジェーン・オースチン、フィッツゼラルド、ヘンリー・ジェームス、ナボコフ等の作品は、イスラム原理主義者・共産主義者にとっては、不道徳・退廃の極みであり、憎むべき悪魔の欧米資本主義の象徴であった。
大学がイスラム原理主義の支配下に置かれ、ベールを被ることを拒否した彼女は解雇され、講座は閉鎖される。
こうしたイスラム原理旋風が吹き荒れるなかで、毎週木曜、密かに7人の女子学生が著者の自宅の居間に集まり、禁じられた欧米の作品を読んでいた!そしてそれは2年間も続いた。
まだ半分程度しか読み終えていないので、ここに登場する人物たちが、その後どういう運命をたどったのか、まだ全部は分からない。
しかし利発な女子学生の多くは、胸が苦しくなるような、むごい試練を経験する。ある者は不運にも虐殺され、ある者は紙一重の幸運で、牢獄から生還する。
* * *
現在のイランはどういう状態なのだろうか?
イスラム革命初期の動乱期は過ぎ、人々は安定した暮らしをしているだろうか?
イスラム原理主義もそれなりに成熟し、もっと人間的な社会になっているだろうか?
著者は1997年アメリカに脱出し、現在は文筆家として、またジョン・ホプキンス大教授として、活躍している。この書は彼女の回想録である。
ここに書かれている原理主義の二元論社会と、最近の日本の雰囲気が、妙に近いものに感じられる。
明確な形で記憶していないが、原理主義者の学生と対峙した時、何かの拍子に彼女が声を上げて笑った。本当に吹き出すような場面だった。すると相手は、笑ったことを激しく非難した。
私も似た経験をした。
9月議会で吊るし上げられている最中だった。誰かのコメントが余りに可笑しかったので、声に出して笑ってしまった。
すると最年少の議員が、「笑う場ではない。不謹慎だ!」と、ものすごく声を荒げた。
一瞬、仰天したが、「そうか!吊るし上げられる私には、笑う自由も許さない、そういう人なのね?でもね、私とあなたは対等でしょう?私が思わず吹き出しちゃったことに、なんであなたが“笑うな!”と命令できて?」・・・・・・・もちろん、言うのもバカバカしいので、止めといたけれど。
著者名を忘れることころだった。
Azar Nafisi、アザール・ナフィシと発音するのだろうか?
写真では、クッキリと整った美しい顔立ちで、知的で柔和な笑顔が、なんとも魅力的な人だ。